『サムメンデスの映画を三本観ることにして、「この人は何か底知れないな」と改めて、感心したい気もします。あくまでも僕の場合ですが。』
「ROCK IS HARMONY」新潮社より2007年吉月吉日長編書き下ろし「ゴールデン スランバー」刊行予定。伊坂史上最高の娯楽スケールとのこと。
『実は、ずっとあたためていた新作を、昨日から書き始めてるんです。僕は前から『ダイ・ハード』をやりましょうよ、と親しい編集者に言っていて、ようやく作品にとりかかったところなんです。ハリウッド映画のような、ある意味ベタなエンタテインメントを狙ってますが、こうしたらドキドキするというような方程式や定型をおさえつつ、オリジナリティが出ればいいな、と思っています。』
『うちの父親がよく言っていた言葉で、「作品を作る人というのは、全部吐き出さなければ次の新しい物は生まれてこない」というのがあるんですが、これはまったくその通りだと思ってるんです。全部出し切った上で次のネタが出てこなければ、所詮はそれまでということですからね。』
『僕は自分の小説を漫画化することにあまり興味がないほうなんですよ。でも編集者さんから、漫画版 「終末のフール」 第一話のネームを見せていただいた際、「この感覚で描かれる、この世界を観たいな」と強く思ったんです。』
『ある先輩作家さんが、「たぶんね、小説というのは、どこかで悲しみに暮れている誰かに、寄り添うような、そういうものなんだよ」と言ってくれた。
中略
等身大の話かな、と読み進めていたら、いつの間にか、現実が溶けた妙な場所に到着していて、これは等身大どころか見たことのない場所だぞ、とにやにやしてしまうようなものが、 寄り添ってくれる小説ではないかな、と僕は思う。そして読んだ人が、本を閉じた後、「あんな景色を見てきたんだから、大丈夫」と根拠のない自信をお腹に抱えて、(それは、ロックンロールを聴いた時と似ているのかもしれないけれど)、「とりあえず、やりますか」と、気が進まない学校に向かったり、放り投げたい仕事に取り掛かる。そういう力のある小説が読みたくて、だから、自分も書ければいいな、と思う。』
技術も知識もレパートリーもない伊坂さんがグラタンを作ったエピソード。
『この文庫本の序盤に、「ともかく僕のそのときまでの二十年の生涯に、なにひとつ特別の出来事がおこらなかったということがいわば僕の個性だった」という文章があった。それを読んだ瞬間、ああ、僕もそうだ、僕も特別なことなんてなかった、と共感とも悲しみともつかない気持に襲われた。』
小西 『伊坂さんの本って、広告を作っている感覚に近い気がするんですよ。受けての感覚がわかってて、その上で伝えている感じがする。』
伊坂 『僕は 「わかる人だけついて来ればいいんだぜ、ベイビー」 までは割り切れなくて(笑)、相手側にわかってもらいたくなるんです。ある書評家が 「伊坂幸太郎が持っているのは親和性なんだ、向こう側に親しく入り込んでいく力なんだ」 と書いてくれたのはよく覚えています。』
終末に向かうパニックではなく、小康状態の中での人間ドラマを描いたことについて。
『これについてはリアリティの演出が本当に難しくて、ずっと悩みながら書いていました。世界滅亡の発表から五年が経った世界とはいえ、あまりに皆が淡々とし過ぎているような気がして。僕が書くと何でもわりと淡々としてしまうのは持ち味でもあるので良いのですが、現実感が乏しくなるのも避けたいですから。このあたりのバランスにはすごく気を遣いましたね。設定としては、これは世界が終わっていく話ですが、結果的に読み終えた人が、何かが始まっていくような感じを覚えてくれると嬉しいです。』
「籠城のビール」「天空のオール」など、遊びのあるタイトルについて、
『読者にタイトルからおもしろがってもらえたらな、と。先日、井上ひさしさんが、イヤなことやつらいことは、生きているだけでやってくる。だから、小説でわざわざ作らなければいけないのは“笑い”だ、とおっしゃっていて。僕も、にやりとしたり、驚きのある小説を書きたいんです。』
『フィクションには非現実を求めて正解だと思ってます。僕も等身大のものとか日常の1シーンには、そんなに興味がない。というより、そもそもフィクションに日常を求めてる人っているの?という疑問があって。いま過ごしている普段の生活とは違う、どこか別の世界に連れてってくれるのが小説であり、映画だと思うんです。』
夢(ロマン)をもち続けることについて
『意識的に続けようとは思っていました。「諦めなければ叶う」というか、何もやらないのに「オレ、パイロットになるんだぞ」って言う人と自分は違うんだって言い聞かせてましたね。あとは、小説を書きたいということを誰にも言うまいと決めていました。夢を周りに言ってしまうと、それが一つの満足感になってしまって、ポーズで終わってしまいそうな気がしたからです。』
映像化されるときに、ここだけはこだわりたいという部分について
『 「陽気なギャング〜」 は僕のなかではほんとに好き勝手にして欲しいところがあって、例えば映画であったりマンガであったり、いろいろなもので遊べる話のような気がしていて。今回の映画も、そういう意味で全然忠実じゃない部分があって、それがすごく映画っぽくなっていた気がするんですよ。 「チルドレン」 に関しては、 「こうなって欲しくない」 という部分が結構あって、家裁の調査官と少年の話なので、それが 「子どもに全力で向かえば子どもは立ち直るんだ」 みたいなきれい事になることへの恐怖感はありました。』
伊坂ワールドの登場人物の重複について
『どうでもいい脇役には、必ずどんな小説でも、 「佐藤」 か 「山田」 をつける、というどうでもいいルールを決めたり、楽しみながらやっていたのですが。これもやりすぎるとカッコ悪いことなので、最近は自粛するようにしています(笑)。同じ登場人物が複数の小説に出るのは、手塚治虫的?えーっと、実は手塚治虫ファンなので(笑)。実際、 「田中」 ※1は 「ランプ」 ※2を意識しています』
『会話なんかは書きながら閃く感じですけど、具体的なシーンやストーリー展開のアイデアは、外を歩いているときに生まれていますね。うん。きっと僕の作品の8割くらいは歩きながら生まれたアイデアですね。』
映画 「陽気なギャングは地球を回す」 について
『銀行強盗のたびに衣装が変わったり、セットが凝りまくってたりとかは映画ならではですよねー。ああいう、じつはなくてもいいような部分にエネルギーを使うのは、贅沢だし楽しい。映像として正しいありかただと思います。』
映画 「陽気なギャングは地球を回す」 について
『小説と映画は、似ているようでいて、また違った作品になっています。原作とはストーリーが変わっていますが、両方ともどこか現実とずれた、可笑しな物語になっていますので、どなたにも楽しんでいただけると思います』
『以前、作家の伊集院静さんと会ったとき 「小説は、哀しみを抱えている人に寄り添うものなんだ」 と言われていました。その意味が最近になってすごくよくわかってきて。小説って本来、何十万部目指せ!とか映像化を狙え!と、マスに向かうものじゃないと思う。癒しがたい傷を抱えた人のすぐ側に、そっと置かれていればいい。うまく言えないけど、この作品はそういう、人に寄り添える小説になったように思います』
映画の印象について
『好きなタイプの映画でしたね。最初にキャストの顔ぶれを聞いた時には、非常に豪華なのでどうなるのかなと思っていたんですが、テンポが良くて面白かった。原作のあとがきにも書いたんですが、僕は90分ぐらいの長さの映画が好きなんです。これは絶対にその長さには収まらないだろうと思っていたら、92分の映画だと聞いてビックリしました。その分、無理やりテンポ良くしている部分もあると思うんですけれど、逆にそこが好きなんです。僕は小説でも映画でも、丁寧に何でも説明してしまうものは、退屈してしまう。そういう意味でこの映画は意図的に観客に不親切な部分もあって、作り手がチャレンジしている感じがしました。』
特に印象に残っているシーンについて
『すごく細かいところなんですけど、最後の銀行に行くときに、松田翔太さんと佐藤浩市さんと大倉孝二さんが車の後ろの席に座っているシーンがすごい好きなんですよ(笑)。男が3人、窮屈そうに座りながら喋ってるっていうのが、なんかオフビートな感じがして。あの場面だけで1時間ぐらい観たいぐらい(笑)。』
『誰も読んだことのないストーリーだけど、著者名を隠しても書き手が分かる。そういう独創性が目標ですね』
『この映画は実はけっこう僕好みの仕上がりになっているんです。全体に色合いもかっこいいし、音楽もいい。なによりすごく豪華なキャストで、やってることがボーリングとか喫茶店でグダグダしたり、意外としょーもないっていう、そのアンバランスさが面白いと思うんですよ。』
映画の終わり間際で、佐藤浩市さん演じる響野が 「映画の終わりっていうのは・・・」 という演説は伊坂さんが映画用に書かれたそうです。
『僕は実在する俳優さんを想像して書いたりはしないんですが、強いて言えば響野は昔のロバート・デ・ニーロ。成瀬は昔のアル・パチーノ。ただ、それはあくまでも漠然としたイメージで、大沢たかおさんのほうが爽やかで良かったし、なによりアル・パチーノはもっと恐いですし(笑)。それで、雪子がアンジェリーナ・ジョリーで、久遠は「タイタニック」以前のレオナルド・ディカプリオ。そんな風に考えたことがあったな、と今思い出しました。』
『「生きることは義務だ」なんて、学者やテレビのコメンテーターは言ったらいけない言葉だと思う。論理的じゃないですから。でもフィクションだったら、嘘やあり得ないことを積み上げていけば、無茶苦茶な理屈を言っても、読者に「そうかもしれない」と思わせることができるんですよ』
『これまでの作品のように、ミステリー的な仕掛けを期待する読者には、どう受け止められるのか正直わからないんですよ。何も起きない、と思われる気もして。ただ、僕は人間ドラマが好きなんですよね。終末を前に、「こんなに落ち着いていられるのはおかしい」という批判もあるでしょうが、一定のパニックを過ぎた後には、世界はこんな雰囲気を保っている気が僕はするんですよ。何より、希望なんてどこにもないはずなのに、なぜか期待しているような錯覚って、好きなんです。』
『今回の小説は、今まで僕の本を読んだことがない人に、自分の作品を紹介する気持ちもある。おかしな家族の話や、周辺に出てくる奇妙な人物たち、伏線とその回収など、今までの僕が書いてきた要素をたくさん使い、伊坂幸太郎のショーケースのようなものになればいいな、と考えている』
最後は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のイメージを思い浮かべたことについて、
『たとえ醜くても、他人を蹴落としてでも懸命に生き続けるというイメージですね。最後の話で書きましたが、子供から自殺して何が悪いんだといわれたときに、親は何がいえるのか。自殺しないほうがいいよとか、誰かが悲しむとかいったとしても、じゃあ悲しむ人がいなければいいのかということになると、また違う議論になってしまう。そのとき、「死に物狂いで生きるのは、権利じゃなくて、義務だ」といいきっちゃうことが、こういう設定ならば説得力があるような気がしたんですよね。無茶苦茶ですけど。』
『試写を観た直後、ある書店員の方と話す機会があったのですが、「伊坂幸太郎の本が映画になるときは、毎回、松田翔太が出たらいいですよ。雰囲気が合ってますよ」と言われました。誰に向って言えばいいのか分りませんが、どうかよろしくお願いいたします(笑)。』
『登場人物の中で誰が好きかと聞かれれば、真っ先に思い浮かぶのは「太陽のシール」の土屋さんかな。元サッカー部の主将で、僕にとっては憧れ的存在です。彼は息子が先天性で進行性の難病を患っていて、以前から、子どもを残して死ねないと心を悩ませていた。だから、唯一、小惑星の到来を喜んでいる。不謹慎かもしれないけれど、そういう人がいてもいいんじゃないかって思ったんですよね。』
『僕の小説に限らず、原作と映画が同じでは意味がないと思うんですね。本はひとりで楽しむものだから、言い方は悪いんですけど、地味なものでも楽しめるんですよ。でも映画は華やかなほうがいい部分もあるでしょうし。』
『肉親は、血縁による親しみはあるけれど煩わしさもある。夫婦だと、どちらかが我慢し続ける関係もあるかもしれない。それでも人は人との関わりでできてるし、相手がいるから、何かが起こる。世界の終わりを、一緒に過ごせる相手がいるって大切なことだと思いますから。ベタだけど、僕は人間ドラマがすきなんですよ。』
小説現代 2005/5号に掲載されていたエッセー
手書のメッセージ掲載。
『So many men, So many minds. 2006』
内容について考え出したときに、ジョー・ストラマーというミュージシャンが亡くなったこと、アメリカのイラク侵攻という背景があり、 『物語の中の登場人物は、やたらと「ジョー・ストラマーがさ」「ラモーンズはね」と騒ぎ、そして、麻雀をやっては平和という役に固執することになりました。』
ポケットにドックフードを常備しているお父さんのエッセイ